| 7日目 |
| ポーク・バレルか地方の時代か?(レプティス・マグナ遺跡) |
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前日が遅かったこともあり、この日は朝9時出発と少し遅め。レプティス・マグナ遺跡に行く前に、まず、オエア(トリポリの旧市街)の中のオスマン・トルコ時代の博物館に寄る。博物館に行くまでの旧市外の迷路のような道を歩いていると、ローマ時代の彫刻を施した柱が無作為に立っていたりする。博物館の中では、オスマン・トルコ時代の代官の暮らし振りや各種の衣装などが展示されているが、いかんせん、オスマン・トルコというものを知らないのであまり良く判らない。ただ、ガダメスなどで見た民族衣装と、トルコ式の衣装がかなり異なると言うことが判るのみである。 ![]() ![]() 市街地を後に、今度は東へ。120kmほど離れたレプティス・マグナ遺跡へ向かう。トリポリの市街を抜けると、オリーブなどの農場が広がっている。ちなみに、S氏はこのあたりに農場をもっていて、エジプト人の管理人をおいているという。途中、小高い丘にあるリゾート・ホテルで小休止。これまたS氏のお気に入りというこのホテル、確かに雰囲気は良好である。ハーブ・ティーを飲みながら、地中海から吹いてくる心地よい海風を感じつつ、木々と地中海を眺めて過ごす。その後、20分ほど走るとレプティス・マグナ遺跡のあるアル・コムの町に着いた。 このレプティス・マグナ、2世紀も末の紀元193年にローマ皇帝位に就いたセプティミウス・セヴェルス帝の出身地である。セプティミウス・セヴェルスは軍人出身で、シリアに滞在中に神官の娘と結婚し、五賢帝の最後マルクス・アウレリウス死後の混乱を平定して皇帝になった人物である。その後、息子のカラカラが跡を継ぎ、カラカラの暗殺後も、一代おいて甥っ子(妻の妹の孫)二人がシリアを地盤に皇帝位を継いだことから、後の歴史学者からはセヴェルス朝の初代という取り扱われている。で、このセプティミウス・セヴェルス帝、日本で最近ローマ帝国史の定番となりつつある塩野七生女史の「ローマ人の物語」ではあまり評判が良くない。生まれ故郷のレプティス・マグナ(イタリア語読みではマーニャ)を大改造して、トリポリタニア属州の首都として北アフリカ有数の大都市に作り替えたことをさして、権力者としての矜持が鈍ったと評している。(「ローマ人の物語 ]T巻」p335、新潮社、2002年)。ちなみに、この表現、地元への利益誘導に奔る日本の政治屋逹を批判する時に塩野女史が使う表現であり、セプティミウス・セヴェルス帝の軍政改革への否定的な評価などを合わせて考えると、女史の評価があまり高くないことを伺わせる。上越新幹線など数々の地元利益誘導を実現した田中角栄並みというところであろうか。今回のリビア行きの一つの目的は、塩野女史の言う「故郷に錦」のローマ都市であるこのレプティス・マグナを見ることにあった。 遺跡に着いたとき時間はもうお昼になっていたが、まずは旧市街の中心部から離れた円形劇場と競技場へ。例によって考古学者が兼任しているガイドさんを乗せて、円形劇場へ向かう。紀元1世紀に作られたというここの円形劇場は約1万6000人を収容できたという。地面を掘り下げて作った斜面には石灰岩で客席が作られ、客席の下にはちゃんと通路も作ってある。次に円形劇場の横にある馬車競技場へ。こちらは最大収容人員2万5千人とのことで、観客用の席は片側にしか用意されていない。コースというか、トラックの大きさは450m×100mもあり、散水用の設備も完備していたという。レースは主に4頭立て馬車で行い、1日7レースほど行われたというから、かなり大規模なものだったのであろう。浜辺を歩きながら港の方へ行く。港は川の河口に作られているが、セプティミウス・セヴェルス帝によって大改造され、倉庫と防波堤を兼ねた突堤が河口を塞ぐように建設された。そして、海側には灯台の跡が残っている。今では河口が芦原になってしまっているが、この突堤の整備状況はかなり立派である。突堤の長さは500mくらいあり、突堤に囲まれた船着き場は500m四方くらいの広さであろうか。 ![]() ![]() ![]() ![]() ここまでの観光で1時間半ほど過ごした後昼食休憩に。休憩後、今度は遺跡本体の観光に移る。リビア最大のローマ遺跡だけあって、割と立派な博物館が併設されているのだが、中の吹き抜けにはお約束の通りカダフィ大佐の肖像画が飾られている。もっとも、その他の展示はすこぶるまともで、発掘された壺や、風化しやすいレリーフなどを飾っている。次に、遺跡群の入り口にあるセプティミウス・セヴェルス門へ。この門、一応はパルティアへの戦勝の凱旋門なのだそうだが、紀元203年に彼が生まれ故郷のレプティス・マグナを訪問したのを記念して作られたのだそうである。昼間の強い日差しの中、凱旋門はそれなりの威圧感を持ってそびえ立っている。次に、ガイド氏に連れられて「狩りの浴場」と呼ばれる建物へ。浴場とは言いながら、何やらトーチカのような建物である。ここは年代がレプティス・マグナ全盛のセヴェルス帝期とは少しずれているそうだが、天井などにきれいなフレスコ画が残っている。このフレスコ画を保護するためにあまり観光客は入れないそうだが、今回は特別と言うことで入れて貰う。当然、フラッシュ撮影も禁止であった。 ![]() ![]() 狩りの浴場を後にまだ発掘されていない草原を歩いて、今度は遺跡の中心部へ。サブラタについで大きいという円形劇場や、市場、さらにはリベル・パテル神を祭った神殿やフォーラムなどのある古い方の市街の中心部を回る。このあたりは、まぁ、他のローマの古代都市とはあまり変わらないと言う印象である。建造物の経緯を聞いても、特にセヴェルス帝がどうこうしたというものはほとんど無い。もともと、ローマ時代にはそれなりの大都市であったということなのであろう。 ![]() ![]() しかし、レプティス・マグナのレプティス・マグナたる所以は、やはりセヴェルス帝が建てさせた建造物の方にあるようであり、そちらの方がやはり圧巻というか、他のローマ時代の遺跡ではなかなかお目にかかれないものである。特にすごいのは、港の突堤と、旧市街の南側、港との間にセヴェルス帝が建てさせたバシリカ(屋根付きの公会堂)とフォーラムであろう。バシリカやフォーラムはローマなどにも残っているが、ここまで立派ではない。バシリカの方は、屋根がある関係でやや小さいとはいえ、それでも100m×40mくらいの広さがある。3世紀初めに建てられて裁判所として使われた後、6世紀には教会に転用されたのだそうで、片側は祭壇になっている。祭壇の周りには浮き彫りの柱などが飾られており、ガイド氏によると、教会に転用される以前のものが大半とのことであった。フォーラムの方はもっと豪壮である。南西側にはセヴェルス朝の各皇帝に捧げられた神殿があり、フォーラムを囲む壁の梁には、少しづつ顏の違う多数のメデューサが飾ってある。メデューサの一部は地面においてあるが、メデューサに限らず、掘り出されたすべての彫刻類が無造作に轉がっている。歩き疲れて石の上に腰を下ろすと、周りは彫刻だらけ、という感じである。発掘が重点的になされたせいもあるのであろうが、いったい、当初はどれだけの彫刻で飾られていたのであろうか。セヴェルス帝が「故郷に錦を飾った」だけあって、かなり豪華だったのであろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() セヴェルス帝のフォーラムを出て、今度はハドリアヌス帝の作った大浴場へ。紀元2世紀の初め頃、レプティス・マグナに水道が出来たのを受けてハドリアヌス帝が作らせたという巨大な浴場である。浴場の前にはパレストラという運動広場があり、一汗かいた後に浴場にはいるという仕掛けであったようである。浴場の建物はかなり大きく、これも100m×50mくらいあるであろうか。中はプールのような浴槽やサウナなど、10近い数の部屋に分かれている。おそらく、ここで生まれ育ったセヴェルス帝もこの浴場をつかったのであろうか。 ![]() ここまで見学してくると、もう日没も近い。30分ほど自由時間になったので、旧市街の方に再度写真を撮りに行き、その後、ガイド氏に一言聞いてみた。「What do you think of re-construcuturing of Leptis Magna by Emperor Septimius Severs? Was it a pork barrel?」答えは「Yes. I think so.」であった。確かに、他の本を見ても、塩野氏やこのガイド氏の言うように、セプティミウス・セヴェルス帝によるレプティス・マグナへの投資は、「故郷に錦」の地元への過剰投資であったという風に評価されていることが多い。しかし、である。動機は何であれ、本来、この種の公共投資の有効性というのは、投資後にいかに使われるか、が問題である。福田赳夫の地元の群馬を通って田中角栄の地元新潟に到るかの上越新幹線にしても、今日、無駄な投資であったという人は余り居ない。理由は明快、それなりに使われているからである。 その文脈で考えるならば、セプティミウス・セヴェルスによる故郷の大拡張も、その投資が有効であったかどうかと言う視点から評価されるべきであろう。当時、レプティス・マグナや周辺のトリポリタニア属州がローマ帝国内でどの程度の地位を占めていたのかは実感がわかないが、少なくとも、今よりははるかに大きな農業生産力を持ち、それなりの大都会ではあったようである。2世紀後半から衰退したオエア(現トリポリ)に代わり、セプティミウス・セヴェルス帝当時のレプティス・マグナはトリポリタニア属州の首都として繁栄していた。・セヴェルス帝は、既にいろいろな意味で3世紀初めには衰退の兆しを見せていたローマに代わり、比較的裕福な地方都市であり、かつ、自らの出身地であったレプティス・マグナに、ローマ帝国を支える主要都市になってほしいとの夢を託して大拡張を行ったとも考えられる。事実、キレナイカの諸都市やサプラタと違い、レオウティス・マグナの繁栄は7世紀のイスラム勢力の進入まではそこそこ続いていたようであり、その間、ディオクレティアヌス帝や東ローマ帝国のユスティニアヌスT世もこの都市を拡張している。その意味では、セプティミウス・セヴェルス帝の投資は、上越新幹線同様、動機はとにかく、結果としては「当たり」だったことになる。そんなことを考えているうちに日没も近くなり、遺跡の営業時間も終わりになった。ガイド氏に連れられて、セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門を通ってレプティス・マグナを後にする。夕闇の中に立つ凱旋門はどこか寂しげで、さながら、上越新幹線の浦佐の駅前に立つ田中角栄の像の様にも見えた。 ![]() レプティス・マグナを後にして、もと来た道を1時間半ほど戻りトリポリの市街へ。今日の夕食は最近増えてきたという民営のイタリア料理レストランへ。これが実に雰囲気のある、美味しいレストランでいささかびっくりする。国連の経済制裁の部分解除などを受け、リビアにも確実に市場経済化の波が押し寄せてきていることを痛感した。 |
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