| 5・6日目 |
| キレナイカのペンタポリス |
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アル・クフ渓谷の見学を終え、アル・ベイダ(英語で言うとThe Whiteという意味らしい)というキレナイカ丘陵最大の都市を経てキュレーネ遺跡へ。キレナイカに点在するギリシャ・ローマ時代の古代都市遺跡群はペンタポリスと呼ばれるが、その中で最も大きいのがキュレーネの遺跡である。キレナイカの古代都市はギリシャ起源の都市が多いが、地図を見れば、なるほど地中海を渡れば向こう側はもうギリシャである。陸路だとトルコ・シリア・パレスチナ・シナイ・エジプトと結構遠い距離ではあるが、海を渡ればほんの数日であろう。海洋民族であるギリシャ人にとって、海を渡ってキレナイカにやって来るというのはごく自然な発想であったのであろう。 キレナイカ最大の古代都市であるキュレーネも、やはりギリシア人が建設した都市が起源である。紀元前7世紀に、デルファイのアポロン神殿の信託に従って、バットスという人物率いるサントリーニ島出身者が建設したのが起源だとガイドのS氏が説明してくれる。ただし、海岸からは20kmほど離れていて、キレナイカ丘陵が海に向かってすとんと切れ落ちていく境のところにあり、海沿いにあるアポロニアという港湾都市とセットになっている。丘陵の上の方が平坦地が多い上に水もあって都市建設には都合が良い上、神々は山の上というギリシャの伝統にも則っているので、こちらが主要都市になったらしい。さて、この広大なキュレーネの遺跡だが、例によってあまり発掘は進んで居らず、ギリシャ人の建設したゼウスの神殿とローマ時代の市街の中心部、アポロンの神域と呼ばれる泉のあるところの3カ所しか復元されていない。出土品を收める博物館もまだ建設中なのだそうである。歴史的順番と言うことか、まず、ゼウスの神殿から見学が始まる。ギリシャ人の時代に建設された後、アウグスティス帝の時代に立派に再建され、その後、ユダヤ人の反乱で壞され、ハドリアヌス帝の時代に修復されたという。現在立っている柱は、ハドリアヌス帝の時代の柱をイタリア人が修復したものだそうだが、最近の作業なのだそうなので、別にサプラタの円形劇場のような政治的意図はないようである。 ![]() ゼウス神殿から、今度はキュレーネのかつての中心部に向かう。といっても、まだあまり発掘が進んでおらず、せいぜい200m×200m程度に過ぎない。それでも、フォーラムや小さなオデオン(円形劇場)、バッカスの神殿、市長公邸などがあり、一応ここが町の中心部であったことがわかる。ただし、建物はどうも小振りで、サプラータやレプティス・マグナに比べると小さい。どうも、リビアの古代都市としては歴史はあるにせよ、セヴェルス帝の大公共事業の恩恵はここまでは及ばなかったようである。 ![]() 町の中心部からすこし下ってアポロンの神域と呼ばれる谷間へ。キュレーネの遺跡はキレナイカ丘陵の北のはずれに位置しているのだが、ちょうどこのアポロンの神域のところで地下水脈が地面に出てきていて、水がこんこんとわいている。そのわけか、アポロンの神殿は、市の中心部からはやや下ったところにあるこの聖域の方にたてられている。そして、アポロンの神殿を挾むように、大きな劇場とトラヤヌス帝のたてた浴場が存在している。また、この谷間から海の方を見ると、キュレーネの港湾都市であるアポロニアの方が見渡せ、アポロニアに到る道の斜面にはネクロポリス(「死者の町」、つまりお墓)が続いている。 ![]() そのまま古代の街道沿いの道を通って今度はアポロニアへ。キュレーネに付属する港湾都市と言うことでローマ全盛期にはあまり大きな規模ではなかったようだが、375年の大地震のあと、キュレーネが衰退して行くにつれて、海上交通が便利であったアポロニアの方がローマや他の地中海沿岸部とは良く通じて文化面では栄えていたという。このため、キレナイカ最大というビザンチン時代の教会があったりする。もっとも、イスラム勢力の進入後は町が放棄されたため、教会の遺跡が残ったと考えることも出来る。港湾施設もかなり大規模であったらしいが、現在ではそれをしのばせるものはあまり多く残って居らず、海辺の田舎町の遺跡という感じであった。アポロニアを後にアル・ベイダの町に戻ると、木曜日、つまり休日の前日と言うことで、町の中は結婚式などで大騒ぎであった。 ![]() 翌日の6日目もペンタポリス見学の続きである。まず、アポロニアとベンガジの中間の海沿いにあるプトレマイオスへ。ここの遺跡はかなり広大である。海岸線に近いせいか、ローマ帝国全盛期を過ぎた後もそれなりに繁栄していたらしく、紀元4世紀以降に流行ってくるきれいなモザイク画(というか床)のついた建物が残っているという。ここのガイドも、考古学者が本業の傍ら努めているという人物で、彼に言わせると、モザイクや大理石は直射日光にあたるとどうしても色あせするので、発掘して後には砂をかけて戻すのだそうである。曰く、「発掘も大変だけど、あとで砂をかけるのも面倒なんだよ。というわけで全部砂をどけるわけには行かないけれど、折角だから少しきれいな大理石の床を見せてあげよう」という訳で、ある箇所では特別に砂をどけて大理石の床を見せてくれた。 ![]() また、ここの遺跡のもう一つの特徴は、ギリシャ時代に建設が始まり、ローマ時代に屋根を付けたという貯水槽がそのまま残っていることである。丘陵の方から水を引いていたらしいが、あまり供給が安定していなかったらしく、100m×100mくらいの大きな地下水槽が設置されている。中にはいると、アーチ型に作られた貯水槽が何本もならび、アーチの天井にはところどころ明かり取りの窓が開いている。地下建造物であるせいかこの遺跡の中ではもっとも保存がしっかりしており、ちょっと整備すれば、今でも十分使えそうなくらいである。インフラストラクチャの整備を重視していたローマ時代らしい建造物ではある。 ![]() プトレマイオスを出て、今度はトクラ遺跡へ。この遺跡はほとんど発掘が進んでおらず、ローマ時代の遺構は立ち入り禁止になっている。ただし、そのローマ時代の遺跡に隣接してオスマン・トルコ時代の城塞が建てられており、そちらの方が観光名所になっているという変な状況になっている。どうも、ローマ時代の遺跡から石を持ち出して城塞を作ったらしい。ただし、これは別にオスマン・トルコの代官がローマの遺跡をどうこうしようとしたと言うわけでは無いらしく、単に、石を運んでくるのが面倒なので手近に石があるところに城塞を作ったということのようである。似たようなことはオスマン・トルコを追い出したイタリア人もやっており、プトレマイオス遺跡の横にはイタリア軍の駐屯地の跡がある。幸いにしてこのあたりは第2次世界大戦当時には戦場にはならなかったが、もしなっていたら、遺跡の石は対戦車障害物に転用されていたことは間違いないであろう。ちなみにこの城塞、オスマン・トルコ時代の遺構としてよくテレビの撮影に使われるそうで、この日も撮影が行われていた。 ![]() トクラの遺跡を後にして、ベンガジの空港へ。このままトリポリへとまっすぐ戻るはずが、フライト・キャンセルで夜中まで5時間ほど飛行機が飛ばないことが判明。これが昔のリビアならば飛行場で待たされるところであろうが、さすがに経済制裁も解けて観光客を呼ぼうとしているだけあって、市内に戻って若干の観光と食事をすることになる。連合軍の墓地を見学したあと、サハラ砂漠の中央の地下湖(かつてサハラ砂漠が緑の大地だった頃に蓄えられた水らしい)を引っ張ってきた巨大パイプラインを記念する公園に行く。その後、トルコ料理の夕食をとって飛行場に戻る。トリポリまでの帰りのフライトは順調であったが、結局、ホテルに着いた頃には日付が変わっていた。 ![]() |
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