| 5日目 |
| リビアとイタリア、韓国と日本 |
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ベンガジは、キレナイカと呼ばれるリビアの北東部の中心都市で、その西の外れに位置する。日本で言うとだいたい大阪に相当する都市である。このキレナイカ地方、エジプトに近くてトリポリなどの北西部とはかなり風土が異なることもあり、リビアの現代史においては反政府活動の中心地になっている。第1次世界大戦以降のイタリア植民地時代にはオマル・アル・ムフタール率いる反政府ゲリラの活動で有名になり、最近では、アフガニスタンから帰国して反カダフィになったイスラム原理主義勢力の根拠地にもなっていたそうである。自然環境もリビア北西部とはかなり異なり、標高数百メートルくらいの小高い丘の上に位置していて降水量も多い上に結構凉しく、大地は草に覆われていて、ところどころでは牛が放牧されている。第1次世界大戦後、イタリア南部から貧しい農民が多数入植(正確には、日本の旧満州への移植同様、現地住民の畑を取り上げたのであろうが)したというのもうなずける景色である。 ベンガジを出たバスはキレナイカのなだらかな丘陵を登り、丘陵を東西に貫く幹線道路を東へ進む。まずカスル・リビアという小さな街へ向かう。この街のはずれのキリスト教会跡から見つかったモザイク画は世界有数なのだそうである。それらのモザイク画は、現在は床から取り外され、近くにあるオスマン・トルコ時代の城塞跡を使った博物館に展示されている。6世紀にの作品だというモザイク画はなるほどきれいであり、当時のまだ比較的優雅な状況がしのばれる。まだイスラム勢力の進入前であるから、北部からのゲルマン人の進入でばたばたしていたイタリアよりは、北アフリカの方がまだ平和な時期なのであったのだろうか。もっとも、北アフリカにおけるローマ帝国都市の繁栄は、375年の大地震で壊滅的な打撃を受け、それ以降は南部からの遊牧民の進出で次第に衰えていたそうなのだが。 ![]() ![]() さらに東へ向かい、今度はイタリア植民地時代のゲリラ戦争の戦跡地であるアル・クフ渓谷へ。1920年代のリビアでの反イタリア植民地闘争の英雄、オマル・アル・ムフタールの活躍で有名になった場所である。アンソニー・クインが映画「砂漠のライオン」の中で演じた主人公として有名になったオマル・ムフタールであるが、現代のリビアではカダフィと並ぶ英雄であり、最高額紙幣である10ディナール紙幣にその肖像が乗っている。ちなみに、カダフィ自身は1ディナール札である。キレナイカ丘陵を東西に貫く道路上の要衝であるこの渓谷では、この渓谷の確保を図るイタリア軍と、渓谷の鍾乳洞を確保して交通を妨害するゲリラとの間で1920年代末に死闘が繰り広げられた。「砂漠のライオン」の中でも、中盤の山のシーンとして、実際にここで撮影した場面が出てくる。イタリア軍は毒ガスまで使用したというも事実なのだそうである。史実では、この渓谷の攻防で敗北した後、ゲリラは次第に勢いを失っていく。イタリア側が戦術を変更し、ゲリラを支援する可能性のあるベドウィンを強制キャンプに収容してゲリラとの接触を断つ一方、エジプトからの補給を絶つために国境沿いに鉄条網をつくるという強硬策に出たためである。このためゲリラ側は次第に衰退し、ムフタール自身も1931年に捕らえられて銃殺刑に処せられた。ムフタールはイタリア側にも人気があったようで、最後の軍事裁判でも命乞いなどせずに毅然としており、イタリア側の記録でもそこは高く評価されている。また、ムフタールの弁護役を努めたイタリアの軍人は、弁護のやりすぎということでのちに処分を受けている。このあたり、伊藤博文を暗殺した安重根に通じるものがあるようである。 ![]() ![]() ![]() というわけで、この渓谷、リビアという国にとっては、中華人民共和国にとっての延安、北朝鮮にとっての普天堡戦闘といった重要性をもつ土地の筈なのであるが、実際に行ってみると意外にあっさりしている。渓谷の真ん中あたりにかつてイタリア軍が作った鉄橋の跡が残っているのだが、そこにムフタールの肖像がかかっているだけで、特段解説の看板も何もない。ガイドのS氏は、あちこちの洞窟を指さしながらいろいろと由来を解説してくれるのだが、それだけである。国中にカダフィの肖像があふれかえる(ちなみにムフタールのはその次に多い)国にしては大人しすぎる。もっとも、現地ガイドのS氏に言わせると、「学校で習っているからリビア人にはこの渓谷について説明の必要はないし、外国人観光客にはガイドが付いているし、どちらにも説明の看板なんか不要だろう。鉄橋の下の肖像も写真撮影用。街の中のカダフィの肖像? 意味が違うと思うけど。ここでの戦闘はカダフィが生まれる前の話だから関係ないよ。街の中のカダフィの肖像画は、現在のリビアが抱える問題についての政府の立場を訴えるためのものだからしょっちゅう変わるけど、ここで激戦があったという事実は変わらないしね。」とのこと。 どうやら、この種の政治的な重要地に博物館を建てたり、無理矢理に何かをでっちあげたり、あれこれとプロパガンダの看板を建てて愛国心を高揚させるという発想は、リビア的ではないということらしい。ないしは、そんな看板よりは、朽ち果てた鉄橋の方がより当時の激戦をしのばせると言うことか。中国といい、北朝鮮といい、東アジアの社会主義国(に限らず抑圧的な国家一般)とはどうも発想が違うようである。 さらに言うと、この発想、リビアに限らず欧州にも見られる。同じ「虐殺」記念館でも、ポーランドのオシフェンチウム(アウシュビッツ)の場合、事実は展示品で語らせるという主義に基づいており、解説の看板は抑えめでありかわり、毒ガスの空き缶や処刑された人から回収したという入れ歯を山積みにするというスタイルである。一方、中国の「南京大虐殺記念館」はというと、逆にプロパガンダ的な宣伝の嵐であり、どこまでが事実でどこまでが中国当局の宣伝なのかがさっぱり判らない。 もちろん、今のリビア人が、植民地統治時代のイタリアの蛮行に怒っていないかというと、そんなことは決してない。リビア人がイタリアについて語る際に出てくる言葉の端々にそれは感じられる。リビア人にとってのイタリアは、韓国にとっての日本と同じような位置づけであり、韓国企業がリビアで活躍しているのも、リビアの現代史に韓国と同じような境遇を感じているからではないかと思えるくらいである。しかし、だからといって、北朝鮮のように指導者親子を神格化するためにその事実を使ったり、中国のように共産党の宣伝に使ったり、韓国のように愛国心をあおるために日本を引き合いに出すと言うことはあまりしないようである。つい先日までアメリカという巨大な敵(リビア人はアメリカも嫌いである)があって、歴史的事実で愛国心を鼓舞する必要が無かったせいか、はたまたリビア人の考え方はこの面に関しては大人なのか。なかなか興味深い違いではある。しかも、この渓谷、道がくねくねしていて通りにくいため、現在は新しい橋が架かっているのだが、その橋はイタリアの援助で造られた橋なのである。イタリアとリビアの関係はやはり微妙である。 ![]() ![]() |
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